前回、私は「ヒトが情報化されることを前提に、医療はこれからのあるべき姿を追求する必要がある」と述べました。
実は、今まさに新しい時代の医療の実践例がいくつかありますので、今回からは、それらをご紹介して向かうべき方向性を提示できればと思います。
神戸のポートピアランドの一角に「神戸アイセンター」があります。
日本初、そして唯一ワンストップで眼の最先端の臨床研究、臨床医療、患者の生活・就労支援の情報提供まで行う場です。
実は、世界初の臨床試験として話題となった「滲出型加齢黄斑変性に対するiPS細胞の移植」は、こちらで行われました。
世界最先端の再生医療、そのプロジェクトリーダーである髙橋政代先生は、先端医療のみならず、患者が社会の中で前向きに生きていくために必要なことを実現するため、想いを共にする眼科医の三宅琢先生をはじめとした仲間とともに、そのすべてをこのアイセンターに詰め込みました(私自身も髙橋政代先生が主宰される社会環境研究室の研究員として、微力ながらお手伝いをさせていただいています)。
アイセンターが目指すところは、患者さんや目に障害を持つ方が「社会の中で不自由なく、活躍できるようにする」ことです。
そのためには、これまでの治療主体であった医療の概念、患者・視覚障害者に対する社会のイメージ、患者自身の病・障害に対する向き合い方など、すべてを根本から変える必要がありました。
医療とは「治療」だけではない
眼病に限らずですが、我々の”病気”の状態から”元気”な状態になる回復過程には、大きく分けて3つのパラメータがあると考えられます。
1)臨床的回復…寛解すること
2)社会的回復…職場や地域で社会復帰できること
3)心理的回復…受け入れ、前に進む意欲を取り戻すこと
現在、医師をはじめとした多くの医療者は治療行為を通して臨床的回復を目指します。一方、至極当たり前の話ですが、治療ができない、または寛解を目指せない病気や障害を持つ人に対して、医療者は何ができるのでしょうか。
「臨床的回復」ができないからといって匙(さじ)を投げるのでしょうか?あるいは、治療が奏効したからといって、患者がそのことが要因で社会に復帰しづらかったり、鬱々とした気持ちで前に進めないときに、それを放置するのでしょうか?
眼病や視覚障害を抱える患者さんには、まさに臨床的回復を目指せないケースが多々あります。視覚からの情報を得られない、または得づらい自身の境遇を処する術を持てず、社会の無理解にも苦しみ、窮屈な思いをして、尊厳が守られずに生活する方も少なくないのではないでしょうか。
彼らの回復に治療技術が貢献できないのなら、何をもって医療は貢献できるのか。
それこそが、情報です。
具体的に言えば、視覚をサポートする機器やその使い方、就労機会まで、彼らがアクセスできていない、手に入れるべき情報を届けることです。
それぞれに適した「情報を処方」し、それが得られる「機会を処方」し、QOL向上をサポートする。
そうして初めて、彼らは社会的回復や心理的回復を果たすことができ、人生を健やかで豊かに生きられるのではないでしょうか。
そのために髙橋先生たちが最初に始めた取り組みが「isee!運動」でした。
「i see」にはさまざまな意味が込められています。
一般の方に対しては、視覚障害の様々な実際と、視覚障害者の生活の実際を。当事者に対しては、障害とどのように付き合えばより良い生活を送れるのか、という「ホント」を伝える運動です。
一般の方、当事者、両方が実際の情報を知り、正しく理解「I see!」してくれること。当事者および社会に伝えるべき「Information」を見える化「See」するコミュニケーション技術「Technology」とも言えるでしょう。
そしてそのTechnologyを物理的空間に落とし込んだのが、神戸アイセンターの玄関すぐ、誰もが必ず通るスペースに設置された「ビジョンパーク」です。
情報と気づきの機会を「処方」する場所
ビジョンパークは視力に問題を抱える人々が、生きる意欲を取り戻すための「気づき」を提供する空間であり、また、社会における視覚障害イメージを覆す「気づき」を提供することも目指しています。
視覚障害者を「○○ができない人々」ではなく「○○ができる人々」と、自他ともに認識し直すことで、お互いが当たり前のように、共に暮らせることを提示する狙いがあります。そのための様々な仕掛けが施されています。
まず1つ目は、白杖を使って移動できる、緩やかな段差やスロープを設置したことです。あえてバリアを作り、それらのバリアにどう対応していくか、ということを自然に考え学べる空間にもなっています。
そして高低差のあるエリアで「感情」に合わせた空間体験を提供しています。例えば、突起物が光ったり音を出したりして位置を示すことで、ロービジョンの人も楽しめるクライミング用の壁や、電子拡大鏡、音声で時刻を教えてくれる腕時計などの最新デバイスの紹介、セミナーやヨガ教室といった、様々なイベントを行うスペースも備えています。
各エリアには利用目的をあえて設定していません。医療、福祉、教育、趣味など多分野の情報提供の機会が備えられ、多様な過ごし方を提供するベンチに加え、利用者の感情と必要なニーズのステージ(癒し、情報、活動つながりなど)に合わせ、エリアを高低差により緩やかに区画しています。
私は定期的にこちらに通い研究活動をしていますが、本記事を執筆するにあたり、改めて髙橋先生と三宅先生にお時間をいただき、ビジョンパークが始まってしばらく経って感じていることなどをお聞きしました。
知りたい、やってみたいの感情を引き出す、コミュニケーションテクノロジー
畑中 前回のコラムで、人が情報化されていく情勢の中で、医療はそれを前提としてそのあり方を追求するべきだ、と書かせてもらったんですが、ビジョンパークはまさにその好事例だと思っているんです。情報化というのはデジタル化(電子化)と同一ではないし、考えてみれば「通信」という言葉自体、光回線や携帯電波などの伝搬媒体の意味よりも、お互いの言葉や約束が通じる、通じる前提を揃えられている、その状態のことを示しているのだろうと考えています。
神戸アイセンター のコンセプトは、視覚障害者・ロービジョンの方々と周りの方々の認識を、情報や体験を、見せ、伝えることで変えていく。そういうテクノロジーを駆使していると思うのです。
三宅 そうですね。実際、この話は、医療や自動運転を語る時に、いつも陥りがちなところです。すぐに「管理する側」の話になりがち、というのと似ていますね。医療では血圧を24時間モニタリングできるようになっていれば、(イベントも)把握できるし早期介入ができていいですし、自動運転でも、人がいきなり出てきたら反応してブレーキしてくれるといったことは、とても素晴らしい。
だけどもっと重要なことは、それを使って人はどこに行きたいのか?ということなんです。例えば(運転しているとして)、ここを左に曲がったらロービジョンの人も楽しめる施設があります、とガイダンスしてくれるとか、多くのロービジョンの人はここで曲がっていますよ、と伝えてくれるとか。ユーザー目線のコミュニケーションというか、管理目線から言えば必要ないと思われる部分だと思いますが、でもそこがコミュニケーションを生むんですよ。
髙橋 まさにユーザー目線の欠如ということですが、さらに言うと大抵の場合、想定しているユーザー像ってただの仮定・仮想なんですよね。幻の「健常・健康」な、そんな人どこにいるの?という仮想の人に基づいている。
畑中 先生方と最初にお話して驚いたことは、「視力は自己申告」ということ。考えてみれば確かにそうで、視力検査は視標が見えるか見えてないかだけを自己申告する。でも例えば同じ視力が0.1の方がふたりいたとして、そこに下がってきた人と、それ以下から視力が向上してきた人では、感じることはかなり違うはずですよね。
髙橋 同じ状況でも活動性がまったく違ってきます。ひとことで「見えない」と言っても、それは多種多様ですから。
三宅 そもそも、あの視力検査でCの形をしたランドルド環のどこが空いているか見分けさせることで分かるのは、視力の中でも「空間分解能」だけです。例えば、昔書道をされていた方々は、ゴシック体よりも明朝体の方が「とめはね」があるから認識しやすい。一方で、形しか認識できない人にはゴシック体が見分けやすい。「見える」という言葉はものすごく包括的な意味を持っているんです。「分かる」「理解できる」「形を認識できる」「意味が分かる」…本当に色々あるんですよ。
私は平行して「Gラウンジ」というのを定期的にしていまして、ロービジョンの患者さんにタブレットの操作方法やデバイスの情報をお伝えしているんですが、その中でヒアリングをしているうちに「医師が教えているよりも、当事者同士で教えあう場所が必要だ」と気づきまして、髙橋先生とビジョンパークのコンセプトを煮詰めている時に「段差をなくすのは病院の中だけでいいのでは」と思いつきました。
わずかな段差をあえて作ることで、白杖を使ってそれを歩いていける安心感を知ることができれば、「白杖を持って外に出てみようかな」と思えるように導けるかもしれない。
そんな「ちょっと挑戦できる」体験を提供できたらと思い、他で言うとあえて手すりをつけずに、本棚の縁のちょっとした突起をつかめば歩けるんだという気づきや、障害者向けの図書ではなく香りがする図書を置いたり、さらに普通の方が何か気づけるような本を置くなど、常識を変える気づきを与えられるようにしてきました。
今後はこうしたビジョンパーク内での情報処方の取り組みを外に向けてみようと、SNS上で動画コンテンツを増やしています。例えば全盲の人にとってのAIスピーカーの使い方などですね。そういった情報はなかなかありませんから。
髙橋 ビッグデータを活用したAIの普及が進み(診断などはAIが置き換えて行くと)医師が目指すべきところは人間的回復だと思っていて、それがビジョンパークを運営している理由でもあります。つまり臨床的回復だけでなく、社会的、心理的回復も目指していく。そのために「医師は人間性と創造性を持たなければならない」と思っています。
ちなみに、段差をつけて手すりをなくすという試みには、様々な人から「危ない」と猛反対されました。でもそうして保護し続けることは、患者さんが本当に望んでいることなのか、ということです。
三宅 これは別の機会でのお話ししていることですが、例えばスマートウォッチで睡眠状態を可視化しましょうとか、タブレットを使って眼精疲労を軽減するアプリがありますよなどお伝えしているんですが、こういった、「受け取った情報をどう解釈し扱うか」という、つまりリテラシー教育が大変重要だと思っています。むしろそれがあっての情報処方、という面もあるかもしれません。
畑中 私が2009年から医療を次世代化するべく「医療3.0」というビジョンを提唱し始めた時に、これから超高齢社会を迎えて圧倒的に医療へのニーズが高まっていくので、そこから学びという領域が本質的に注目され加速するということは、わが意を得たりという感じです。
あえて決めない「遊び」が、思いがけない進化をもたらした
三宅 ビジョンパークを始めてみて分かったのが、ここには何かが生まれる偶発性が内包されているということでした。ここは待合室、といったようなスペースに定義付けをしていないので、私たちが予想もしなかった使い方をしてくれるんですよ。
髙橋 「難聴サロン」もそうだよね。
三宅 そうですね、他の障害をお持ちの方が使ってくれたりとか。使い方を決めてない、という遊びを残したのが良かったのかもしれません。それと、これも始めてよかったことですが、段差を設けたことで、いちばん成長したのは実はスタッフでした。最初の頃は危ないから近づかせないようにしようとか、柵を立てようとか話していたんですが、今やむしろ積極的に来場者さんに白杖を使って歩いてみてください、楽しんでみてくださいとお勧めするようになってくれました。
髙橋 実際つまずいたりするのは健常者の方だったりするんですよね(笑)見えてない方は白杖で慎重に歩いていくんですが、見えている人たちは安心していてちゃんと下を向いてなかったりしていますから。
三宅 案内する人が逆につまずいたりとか(笑)
髙橋 来場するロービジョンの方も、白杖でトントンとリズミカルに床を叩いて、段差が楽しいなんて言ってくれます。
三宅 それと段差も要因として含んだ話ですけど、ここは結果的に様々な座り方ができるように設えてあるんですが、視線が立体的に交差し、合わないんですね。だから心地よい、居やすい空間になっているのだろうと思います。というのは落合陽一さんが言ってましたが、「平成の時代は皆パソコンやスマホを見るので、街中で視線が合うことがなくなった。合ってしまうことが違和感や不快感につながる時代なんだ」と。
視線は合わない、だけどそばに人の存在を感じるから心地よい、そんな空間に結果的になっていた。そういう理由で段差を設けたりしたわけではないので、面白いなと感じています。
もうひとつあるのが、オープンした時は、来場者の「心のステージ」によってスペースに意味付けをしていたんですね。
一番低いスペースは気持ちが鬱々としているステージ、そこから段差を経て少し上がって情報を求めていくステージ、最後はアクティブに生活を楽しむステージのエリアにしているんですが、たまたまなんですけど、来場者の気持ちの「上がり方」に対して段差が正比例していなくて、アクティブなエリアと一番下のエリアの高さが一緒なんですよ。
ただそれでも来場者の気持ちはアクティブになっているんです。段差の高さと関係なく、気持ちの高さを上げていけてるんだなというのも、結果的に良かったなと思えるところですね。
空間デザインが山﨑健太郎さんだったことも大きいです。彼の設計思想は「徹底的にユーザー目線」であること。見た目のデザインに作家性を求めない人なんです。
彼が、建築計画学の鈴木毅先生(近畿大学建築学部教授)が提唱する、人の「居方」に関する考え方を参考にしてくれて実現した空間です。
畑中 ビジョンパークは今後の医療にとって、ひとつの目指すべき象徴だなと思っていて、物理的なこと以上にそのメッセージや要素が様々な形で広まっていけばと思いますが、それにあたって大切にすべきはなんだと思いますか。
三宅 本当の意味でのユーザー目線ということではないでしょうか。ハコを作る側でどう使うかを決めずに、人々が集まる拠り所、公園や教会のような場所をつくっていくというような、概念の作り方ですかね。考えてみれば古代の医師は宗教と非常に近い存在でしたし、人々が安心できる情報を処方する、神父さんのような存在がいる場所、ということでしょうか。ここに来た人がそのマインドを感じて持ち帰ってもらえればと思いますね。
髙橋 もちろん、眼科に限らず幅広く広まってくれればと思います。
三宅 ユーザー目線のデザインということでもう一つ言えば、当事者の声を聞くということではないかと。どういったデザインが求められているかを知っているのは、当事者だけなんです。仮説ではなく本物から学ぶということが大切だと思います。障害者の方々は、障害を持って生活することにおいて、文字通り「先生」なのだと思います。
最先端の医療と、日々の臨床とに同時に取り組む髙橋先生らが、治療技術の発展だけにとどまらず「医師は人間性と創造性を持たなければならない」と強く認識されていることは、非常に重い意味を持ちます。
「(治療の)限界を知っていること、(ニーズを教えてもらう)現場を持っていることが大事」という発言もありました。
私は、自身がスマホを活用して臨床現場・医療体験を変革するような道具を仲間たちと生み出してきたからこそ、昨今半導体産業の成熟化によりヘルスケア産業に流れ込む様々な枯れたテクノロジーやセンサー技術の向き先として、血圧や心拍数や睡眠などの様々なバイタルサインをデータ化し、収集・解析するというデジタルヘルスの勃興、その根底に存在する当事者のニーズの希薄さ、目的意識・価値観の希薄さに、大きな危惧を感じています。
医療とは、単に「動物としてのヒト」を情報化するための営みではないのです。人は何かを知りたい、何かをしたい、と思えるから今を受け入れ、未来に向かい、前に進むのです。いかにその感情を引き出し、後押しするのか。
今後、様々な治療技術が進化する中でも、治らない病や障害は厳然と存在し続けます。臨床的な回復を目指すだけの医療では患者は救われないのです。
心身の疾患や障害を抱えながらも、社会の中で健やかに暮らせるために、個々に異なる回復状態に合わせて、適切な情報や機会を処方する。社会にも知識や気づきを処方する。
情報は未来を確かめ、社会の見方を変え、感情を引き出し、前に進める。その意味での「ヒトの情報化」が、人の回復に貢献するこれからの医療の本質だと考えます。
その想いが凝縮されたビジョンパークは、未来の医療の進むべきひとつのかたちだと思います。
そして、偶然にもその中央には、あのギリシャのエピダウロスと同じように観客席のある舞台がありました。そこでは、病院の待ち時間に得意の落語を披露され、集まった人たちに笑いを処方した障害者の方の姿もありました。
物理空間的にも、情報空間的にも、居やすい。居やすいと、癒す(い)、が同じ響きを持っているのは、偶然でしょうか。
私が体感したエピダウロスの空間と、ビジョンパークの共通性。
過去と現在と未来はつながっている、そう思えてなりません。
ぜひ、皆様も用事がなくても、公園に立ち寄るようなつもりで神戸アイセンターに足を運んではいかがでしょうか。
ビジョンパーク紹介記事:そして病院は公園になった 〜神戸アイセンター ビジョンパークはなぜ生まれたのか〜(Parkful.net)
寄稿:畑中洋亮(はたなか・ようすけ)氏
慶應義塾大学理工学部化学科卒。東京大学医科学研究所で遺伝子医学に従事、生命科学修了。2008年 Apple Japan へ入社、iPhone日本法人市場開拓を担当。ICTによる現場から医療構造改革を目指す「Team医療3.0」を結成、ソフトバンク孫社長との対談が書籍化。2010年福岡のITベンチャー アイキューブドシステムズへ転籍、同社取締役就任。日本最大モバイルセキュリティサービスになった「CLOMO」事業を立ち上げた。また、公園などパブリックスペース向け遊具やベンチの老舗メーカー コトブキの役員就任。 その後、企業経営を続けながら、2016年 東京慈恵医科大学後期博士課程に進学、慈恵医大のiPhone導入支援に加え、高尾洋之准教授らとJoin、ケアワーカー向けのシステムなど研究・事業開発も進めている。株式会社コトブキ 取締役
東京慈恵会医科大学 先端医療情報技術研究部 後期博士課程
国立大学法人 佐賀大学医学部 非常勤講師
神戸市立神戸アイセンター病院 客員研究員